29/05/2026
先日、富士山レーダードームで一枚の興味深い資料を目にしました。1884年(明治17年)6月1日、日本で初めて出された「第1号の全国天気予報」です。
そこには、こう記されていました。
「全国一般風ノ向キハ定マリナシ。天気ハ変リ易シ。但シ雨天勝チ。」
現代語訳すると、
「全国的に風向きは定まっていない。天気は変わりやすい。ただし、雨が降りやすい傾向にある。」
という意味になるそうです。
現在の予報精度からすると、ずいぶんざっくりした予報に感じます。しかも対象は日本全国だったようです。
翻って、現代はどうでしょうか。
私たちの手元には、スマホ一つで1時間ごとの降水量や雨雲の動きを数分刻みで追える、神業のような技術があります。露地農業において、これほどありがたいことはありません。
肥料を撒くタイミング、根菜の収穫、定植や種まき――。そのすべてが、精密な予報という「科学の恩恵」の上に成り立っています。
明治の先人たちが、わずかな観測データと肌感覚だけで農作業を判断していた時代を思えば、今はまさに魔法のような時代です。
しかし、これほど科学が進歩してもなお、予報には「所により」や「降水確率」といった曖昧な表現が残り続けています。
「科学の敗北」とも捉えられるでしょうし、自然に対する「謙虚な姿勢」の現れとも捉えられますが、支配的に扱えるものではないということは明らかなように思います。
確かに、土壌の状態を数値化して管理しても、最終的にはその年の気温や雨の降り方一つで、作物の表情はガラリと変わります。
少し大げさかもしれませんが、哲学者・西田幾多郎の言葉を借りれば、自然とは理屈で割り切る前の「純粋経験」そのものであり、常に人間の計算を越えた「ゆらぎ」を含んでいるもののように思います。
現代の予報に残る「曖昧さ」は、人間が自然を完全に支配することなどできないという、最後の一線を守っているようにも見えてきます。
(いや、そんなに美しくまとめられるものでもないか(笑))
それはさておき、天気予報が外れたとき、私たちはつい「外れた記憶」ばかりを強く覚えてしまい、不満を漏らしがちです。しかし、140年前の「雨天勝ち」という一言から始まった日本の気象学が、今の精密さを手に入れるまでのプロセスに思いを馳せると、空を見上げる時の心持ちが少し変わってきます。
便利な技術に心から感謝しつつも、最後は自分の肌で風を感じ、土の湿り具合を見て判断する。科学の恩恵と、自然への畏敬。その両方のバランスを取りながら、日々の天候に思いを巡らせる。農業は、心身にとっての豊かさがある仕事だなと思います。
空は今日も「定まりなし」。
だからこそ、面白いと思えることも多いのだろうなと思います。
※みかどのびっくりジャンボインゲン、はじめて育てましたが、良い品種です。